AIに判断まで任せたら、最後に何が残るのか
以前は、こういう働き方をしていなかった。
文章の構成をLLMに投げて、返ってくるまでのあいだに、別で作っているWebアプリの実行結果を見る。見つかった不具合の修正を指示して、今度はリサーチの結果を確認する。ひととおり目を通したら、さっきの文章が仕上がっているので、そちらへ戻る。
このところ、1日の大半がこの繰り返しになっている。
一つの仕事が終わる前に、別の仕事へ移るようになった
以前、個人のブログを書いていた頃は、机に向かって一本を仕上げていた。何を書くか決めて、構成を考えて、文を並べて、前後がつながっているか見て、直す。この一連を自分の頭のなかで順番に処理するしかなかったから、途中で止めると、戻ってきたときにまた最初から思い出す作業が要った。
マーケティングリサーチも同じだった。検索して、資料を開いて、必要なところを拾って、比較して、そこから仮説を立てる。全部を自分で、順番にやっていた。
今は、この処理のかなりの部分をLLMに渡している。調査なら、広く調べさせて、根拠は何か、一次情報はあるかを確認させる。核になる部分は自分でも一次情報を見るが、全部ではない。Webアプリや財務まわりの計算ツールなら、実装を頼んで、実行結果を見て、次の修正を指示する。
渡したものは、こちらが見ていないあいだに進んでいる。
だから、一つの仕事に張り付いていなくてよくなった。
いまはこの文章の続きを考えたくない、と思えば、別の作業へ移れる。数時間後に戻ってきてもいいし、数日空けてもいい。空けたあとに内容を忘れていても、それまでのやり取りを要約させれば、どこまで話が進んでいたかは戻る。
家事の途中でも、少しは進む。手が空いた3分で指示を出して、洗い物をして、戻ってくると何か出ている。生活の途中で仕事を進められるようになったとも言えるし、仕事を途中で止めて生活へ戻れるようになったとも言える。どちらが起きているのかは、自分でもよく分からない。
人には頼みにくい修正を、何度でも頼んでいる
人に仕事を頼む場合とは、2つの点で違う。
一つは、相手の予定を待たなくていいことだ。人に頼めば、その人が着手するタイミングはその人が決める。優先順位もある。こちらの都合だけで止めたり再開したりはできない。
もう一つは、やり直しを頼むときの摩擦がないことだ。一度依頼したあとに何度も方向を変えるのは気が引けるし、こちらの説明が足りなかったせいでやり直してもらうのは、もっと気まずい。数日放っておいて突然再開するのにも、それなりの言葉が要る。LLMには、この気まずさがほとんどない。
だから、自分の言語化が下手なままでも、何度でも試している。
人に頼む場合は、その人の判断や経験、そのあとの関係まで一緒に動いている。LLMに移せたのは、預けたり戻したりするときの時間と気遣いの部分だ。
代わりに増えたものもある。作業を行き来すると、そのたびに頭を切り替えることになって、これが疲れる。しかも没頭しているので、疲れているのに気づくのが遅い。
それに、面白いことに、文章一本だけを切り取ると、以前より時間がかかっていることもある。ブログを一人で書いていた頃は2、3時間だった。いまは3、4時間かかる日もある。測ったわけではないので体感だが、短くはなっていない。
それでも、この進め方をやめようとは思わない。一本が早く終わることより、その一本をいつ進めるかを自分で決められるほうが、いまの自分には合っている。
任せているのは、作業だけではない
実際に任せているのは、調べたり書いたり作ったりする作業だけではない。
仮説も作らせている。作らせたうえで、その仮説に反証させる。文章なら、構成を批評させて、論理の飛躍を探させて、反論を書かせる。一つのLLMが結論を出したあとに、別のLLMへ「この結論を棄却する前提で調べて」と頼むこともある。
なぜそんな手間をかけるかというと、放っておくと議論が一方向に進むからだ。こちらが最初に置いた仮説に沿って資料が整理され、その整理を前提に次の質問をして、また同じ方向へ進む。反対のことを言わせる相手を、意図的に別に置いておかないと、最初の思いつきがそのまま強くなっていく。
(AIの批評をどう監査するかは、AIに原稿を批評させて、自分の論理の飛躍に気づいたで書いた。)
つまり、AIが作業をやって人が判断する、という分け方は、少なくとも自分の使い方には当てはまらない。判断に近いところまで、かなり渡している。
判断まで任せても、「これで進める」はまだ自分が決めている
それだけ渡していても、完全に渡しきってはいなかった。
最後に「これで進める」と決めているのは、まだ自分だ。この結論で行くか。この反論を重く見るか。この調査で十分か。公開していいか。もう一度叩くか。
ややこしいのは、理解できたかどうかで決めているわけではないことだ。自分には書けないコードでも、動くことを確認できれば使っている。自分では全部読めない量の資料をもとにした分析でも、確かめられる部分を確かめて採用している。理解していないものを、採っている。
理解を基準にしていないなら、何を見て決めているのか。うまく言えない。
文章としては整っているのに、何か違う、と感じることがある。反論しているようで、こちらが最初に置いた前提の外へ出ていない、と感じることもある。もっともらしいのに、実務で使う場面を想像すると違和感が残る。どれも、そのときは説明できない。
仕事そのものからは離れられるようになったのに、この部分だけは、まだ自分のところへ戻ってくる。
もっとも、その違和感に気づけているのは、いまのLLMがその程度だから、という可能性もある。人が気づけない偏りをLLM自身が見つけて壊すようになったら、この構造は変わるだろう。逆に、何をよしとするか、どこで十分とするかは、自分に残り続けるのかもしれない。
LLMに任せる範囲を広げていったら、最後に自分が「これで進める」と決めていることだけが、逆にはっきりしてきた。ただ、その判断をなぜまだ自分がしているのか、それがいつまで自分の仕事なのかは分からない。

